LuciealReplaceAble

ちょっと実験的に色々書きたいな

生き死にが日常の世界が現実よりも尊いと本気で思っているのか

会社で書きなぐったメモを書きます


愛は理想化されすぎて、現実に存在するには重過ぎるんだ



言葉において人の死は極めてインスタントである
「誰々が死んだ」そう書けばそれを意味する
だがそれだけでは当然感慨も何も無い
5W1H、つまり文脈がその現象に骨子と肉を与え血を流す

そこから迸る喪失感
死にゆくものの感情
死を見送るものの感情

それを作品から摂取している


現実においても作品においても
抗うべきさだめとしての死
流れに組み込まれた死
現実においてそれは往々にして予定調和のような華麗さは無く
ただ残されたものをおいやる

作品の文脈における死もまたさだめではあるが
最大限のこうかをもって死んでいく
フラグをきれいに回収していく
惨めなほど描写は冴え渡り
見るもののに情動を引き起こす


引き起こされている
現実にはなくて、作品にある
これは僕が現実をみることができていない証拠だと思う


自分と現実を同じぐらい省みず
ただ、自分の思い通りにしようとしないだけ
つらい現実でもないのに、どうして今を見捨ててしまうのか


僕が死を語ることはちゃんちゃらおかしい
その資格は無い
自殺した友人を非常に残念に感じることと
自身の死を想像するぐらいの自分には


近しい肉親の死や
親友・恋人の死に立ち会うことはできていない
だからこそ



今の日本は生と死があまりにも遠すぎた
フクシマはそこから目を覚まさせてくれたが
もう僕にはあまり効いていない
なんというボンクラさ
申し訳ありません



虚構と現実を混濁しているのは僕なのかもしれない






稚拙な考えとわかっているのだが
最近はこのようなくそみたいな思考が脈々と流れているだけの人間となっています
時間が袋小路へと追いやる感覚なのかもしれない



やはり自分が気に食わない